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TETSUJI MUKASA

プロモーター(発起人)/向笠哲司

1993年 静岡県生まれ

県内の高校卒業後、デザイン会社に勤務。以降30年以上広告デザインの業界に従事。28歳時に肺の難病を患い30歳で「余命10年」の宣告を受ける。これにより仕事への取り組みが変わり35歳で独立、2010年にビアンコネロ株式会社を設立し、同年プライスゼロ・プロジェクトを立上げる。

2022年、体調が悪化し法人は廃業しプロジェクトも休止をする。2022年11月には両肺の移植手術を受け2023年に社会復帰。プロジェクトを再始動させると同時に東京進出をしてプロジェクトの拡大を目指す。

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MESSAGE & STORY

このプロジェクトに興味を持ち、

このメッセージまでたどり着いてくれた方に感謝します。

2010年にスタートしたプライスゼロ・プロジェクトですが

発足して15年近く経った今、P0ノートブックは約10万冊以上、

P0サッカーボールは7,500球以上を無料配布することができました。

これもひとえに協賛企業はじめ我々のコンセプトに賛同して

協力してくださった皆さんのおかげです。

 

いくつかの広告賞受賞やメディアでの取材を受けるたびに

「おめでとう。すごいね。」などお声かけいただくこともありましたが、

僕に特別なスキルがあったわけではなく皆様の支援で続けてこれただけだと思っています。

他のクリエイターさんと少しだけ違った点と言えば、

僕にはちょっとだけ波乱万丈なストーリーがあっただけだと思っています。

ちょっと長くなりますが読んでいただけたらどうしてこのプロジェクトにたどり着き、

なぜ実行に移し継続し続けることができたのかをわかっていただけるかと思います。

ここではそのストーリーの中で生まれた転機や想いをお伝えすることで

このプロジェクトにかけた想いや、プロジェクトの価値を知っていただければと思います。

​もし、お時間に余裕のある方は駄文ではありますがお付き合いいただければと思います。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

静岡県に生まれた僕は幼少期に始めたサッカーに夢中になり毎日ボールを蹴る、

文字通りの「サッカー小僧」でした。

しかし選手としては普通以下の6流以下だった僕には

プロになるという選択肢がありませんでしたが、

サッカーに対する情熱だけは持っていました。

 

そんな僕も社会人になりクリエイターとして経験も積み

充実期を迎えた28歳の時に体の不調を感じ病院で検査を受けます。

3ヶ月ほどにも及ぶ様々な検査の結果告げられたのは

「不治の病」という肺の難病宣告でした。

「は?え?それってどうなるんですか?」という問いに

医師は「原因も治療法もないので病気が進行したら肺の移植手術が必要となります」と答え、

「肺の移植って日本でできるんですか?成功率は?」と聞くと

「まだ国内の手術例はあまり多くないのですが手術をした方の5年後の生存率は48%となります。」

オワタ。

手術をしても5年後には半分死ぬのか…

そう思った28歳の僕は頭が真っ暗になりました。

当時プロポーズしようと思った彼女にもうまく伝えられず別れ、

大好きなサッカーももうできないと思った僕は

そこから毎日自殺願望を持ち続け絶望の日々を送ります。

 

ただ自分の手で自分の人生を終わらせる勇気を持っていない僕は

真っ暗なトンネルの中を1年半ほど歩き、

徐々に体調が悪くなったある月曜日の朝。

自宅の二階から一階の母親に

「悪いんだけど救急車呼んでほしい。」と電話で伝え入院生活に入ります。​

当時、肺移植の名医がいた岡山大学病院へ行く朝、

新幹線のホームから富士山を眺め「もう見ることもないのかな。」と覚悟を決めました。

 

さらに岡山大学病院で移植のための検査を進めると

1年半ほどの絶望生活の中で無理をしていたせいで心不全を起こしており

「心臓が肺移植に耐えられません。心肺同時移植が必要です。

心肺同時移植はまだ国内で例がないので国内初になる可能性もあります。」という、

もうドラマや映画の物語みたいな展開になります。

 

そして医師から告げられたました。

 

「余命10年」

まさに20022年公開の映画「余命10年」で小松菜奈演じる主人公が患っていた

「原発性肺高血圧症(PAH)」と診断を受け、

おまけの心不全という現実を突きつけられました。

 

そしてこの後、大阪大学病院に転院し絶対安静状態で5ヶ月の入院生活を経て

心臓の負担が下がったためなんとか退院しドナーを待つ状態で自宅療養期に入ります。

再び静岡に戻ってきた翌日、自宅玄関先から富士山を見て

「あぁ、戻ってこれたんだな。」と感慨深い気持ちになりました。

その日は30歳の誕生日でした。

少しずつ動けるようになっていた僕は社会復帰をします。

デザイナーとしてデスクワークから始めるも

一度この「死生観」を体験した僕には会社員として続けて行くのが難しく感じ2010年。

確か35歳の頃、独立しビアンコネロ 株式会社を立ち上げると同時に

プライスゼロ・プロジェクトを開始するのです。

そこでサッカーへの情熱を形にしたのがP0サッカーボールの無料配布でした。

「どうせもういつ死ぬかわからない。我慢して大してやりたくない仕事をするより、

本質的にやりたい事ややるべき事をやって、自分がいなくなっても遺るような事業をしたい」

という想いでスタートを切りました。

そうしてポジティブ思考で生きてきた僕は余命宣告から移植手術も受けずに

20年近く生きながらえてきました。

絶望の中「もう死にたい」と思っていた28歳の頃は

確実に身体も死に向かっていましたが、

目標を持って「死ぬ気でやっても死にゃしない!」と思っていた僕の身体は

間違いなく死へのスピードを緩めていました。

しかし2022年に入った頃「終活」を始めます。

残念ながら病気は治った訳ではなく徐々に体を蝕み

呼吸は徐々に苦しくなっていきました。

苦渋の決断で全ての事業をストップし、遺影撮影や生前葬まで。

今度こそ覚悟を決めて終活を始める頃には自分で10m歩くことは困難になり

酸素ボンベに車椅子の状態になっていました。

その後、自宅で手術を受けるまでの間は

自分で二階の自室に上がることさえできない状態にまでなっていました。

2022年11月15日早朝。

1本の電話が鳴り「ドナーが見つかりました。

明日の朝から手術をしますので支度をして病院に来てください。」

という連絡が東京大学病院から入り翌朝には手術室に向かいました。

移植手術前、医師に「手術を受けたらあと何年生きられますか?」と尋ねると

「医学の進歩はしているので現在だと術後5年の生存率は73%です。

頑張って10年は生きたいですね。」と再び余命10年宣告を受けました。

それに対し僕は「じゃ20年行けますね。生存率の数字を僕が上げますよ」と返しました。

 

もっと感傷的になったり緊張するかと思いましたが

意外にも落ち着いて手術室に向かったのを覚えています。

しかしそこからが本当の戦い、まさに

「絶対に負けられない戦い」がそこにはありました。

ICU(集中治療室)で目がさめると両胸から2本ずつのチューブ、

足の付け根にカテーテル、尿道チューブ、右手は点滴が2本、

左手は血中酸素濃度を測るコード、胸には心電図のコードが3本、

口には呼吸のためのチューブに、鼻には栄養剤を送るチューブ、

さらに暴れないように両手をベッドに縛られるという

まさに「ガリバー状態」で14本のチューブ類と両手を縛られ

全く身動きが取れない状況でスタートしました。

 

最初の10日間は生死を彷徨いお馴染みの三途の川を渡りそうになったり

強い鎮痛剤の影響で幻覚幻聴が激しく襲いました。

画家のダリの世界観で時計が針だけ残して溶けていったり、

壁からライオンのような獣が襲いかかってきたり、

エアコンの通風口からねぶたのような恐ろしい顔がこちらを睨んでいたり、

もうありとあらゆる幻覚と戦いました。

奇しくも手術から1週間くらい経った頃、

サッカー好きの僕のために看護師さんがテレビを運んできて

カタールW杯の日本対ドイツ戦を見せてくれましたが

初めてW杯の日本戦を全力で応援することが出来ませんでした。

 

こっちの方が「絶対に負けられない戦いだよ」

そうして10日間人生最大の戦いは全力の気合いで乗り切りました。​

手術から11日後には一般病棟に戻り、その2日後、

奇跡のような出来事がありました。

隣のベッドの方が退院の準備をしているようでカーテンの隙間から目が合いました。

「退院ですか?」と声をかけると

「はい。そうなんです。ところで向笠さんてあの向笠さんですか?」と言うので

「え?あ、はい。あの…?あの向笠ですけど…どこかでお会いしましたか?」と返すと

「実は5年ほど前に沼津で働いてまして。その時にサッカーボールを子供ともらいに行きました。」

当時、少しですがメディアにも取り上げてもらい

僕のことを知っていて覚えてくれていたようです。

確か、その頃配ったボールの数は6,500球ほどあったとはいえ、

静岡市内でしか配布してない上に、1200万人いる東京の

さらに4人しかいない病室で一緒になるなんて…

こんな奇跡あるんだな。またボール配らなきゃなと思いました。

そこでもらったモチベーションを原動力にリハビリにも取り組み

比較的早い回復で40日後には退院を果たし三度静岡に帰ってきます。

半年間は生物やお酒は食べられなかったり厳しい制約の下、

近所を散歩したりしながらのんびりとした時間を過ごし体力を戻し

ようやく解禁となる術後半年を目前にまた僕を悲劇が襲います。

原因不明の肺閉塞で緊急搬送されると静岡では手に負えず

ドクターヘリで東京大学病院へ送り返されるまさに桃鉄ぶっ飛びカード状態。

目を覚ますと「向笠さん!わかりますか?今、東大病院ですよ!明日手術しますからね!」

「マジでか…また手術するのか…」そうして意識を失うと次に目覚めた時は

また「ガリバー状態」からやり直しでした。

今回こそは流石に心が折れた僕は再び「自殺願望」に襲われます。​

「もう無理。こんなの難度も耐えられない!死ぬ!」

絶望のどん底に戻ってきた僕を救ったのは看護師さんと長渕剛でした。

メガネも携帯もなくやれることがない状態でうなだれている僕に

看護師さんが懐中電灯についたラジオを持ってきてくれました。

そのラジオをかけて最初に流れてきたのが「長渕剛特集」でした。

筋肉隆々になってからはそんなにファンというわけでもなかったけど

世代的にヒョロイ頃の長渕さんの曲は好きで、周りにもファンがいました。

その中でも一番好きだった曲がいきなり流れてきたのです。

「STAY DREAM」

死んじまいたいくらいの 苦しみ悲しみ そんなものの一つや二つ

誰もがここあそこに背負い込んでるもの 腰をおろし塞ぎ込んでも答えはNothing!

ぶっ飛ばしたいほどの怒りや悔しさ そんなものの一つや二つ

殴られた痛みはTRYへのワンステップ 尽きせぬ自由はがんじがらめの中にある

くよくよするなよ 諦めないで Just Like a Boy

その痩せこけた頬のままで 果てしない迷路の中を

人はみんな手探りしてでも Stay Stay Dream

そうStay Stay Dream  Stay Stay Dream

泣きました。思いっきり泣きました。

もう「死んじまいたいくらいのぉ♫」で涙が溢れました。

サビを聞く頃には鼻水まで垂れ流して泣きました。

二番はまた強烈に心にぶっ刺さりすぎる歌詞でしたが

気になる方は調べてみてください。

そんな曲の最終盤、再び看護師さんが戻ってきて

「やばっ!恥ずかしいとこ見られた。。。」と急いで鼻をかみ

目を腫らした頃にはすっきりとしてリセットできたのです。

不覚にもたった一曲で大号泣してしまうとは。

そんな気持ちで地獄の10日間を気合いで乗り切り

そこから驚異的な回復力を見せ手術から17日後には退院したのです。

ここまででお分かりのように人は心の持ちようによって

生き死にまで左右する力があるんだと思います。

そう気づいた僕はもう一度前を向いて歩き出しました。

自宅に戻りリアビリの散歩をしながら佐伯方法を考えました。

6,500球を配り1万球を目標に頑張っていた僕が休んでいる間、

グローブを6万個も配る強烈なライバルが出現していたのです。

大谷翔平。相手に不足なしです。

これを話すと「また始まった…」と鼻で笑われましたが

「憧れるのはやめましょう」ってことだよと返し、

「そんなわけで目標は1万球から10万球に上方修正だ」と

また新たな原動力となり静岡を飛び出し東京へ進出する決意を固めました。

この時、余命10年の宣告から20年。50歳となっていました。


東京に出てからはどうやってこのプロジェクトを広げていくか?

そのためにどんな価値を生み出していくのか?

そうすることが正解に近づくのかを考えました。

その答えが選手のセカンドキャリアへの提供でした。

プロサッカー選手の寿命は25〜26歳と言われます。

超一流や一流選手は30代まで選手を続けある程度の蓄えと知名度で

解説者や指導者、タレントなどで活躍できる場合もあります。

でもプロに限らずサッカーに情熱を注いだ人の多くは

「サッカーに携わって生きていたい」と指導者を選択します。

しかし、現実は厳しく町クラブの指導者年収は約200万円とも言われ

バイトなどほかの収入がなければ生活できません。

Jクラブの指導者になれても単年契約が中心で40代50代でも

来年の保証がない生活を送っている現実がそこにはありました。

アスリート特有の「結果が全てだから」という魔法の言葉で

思考停止している現状を変える必要があると僕は考えました。

もっと外側の世界を知っている人間が

新しいビジネスモデルを産んでいかなければ。

僕のような6流以下の選手でも生きていける業界にすることが

プロを目指す子供の背中を親御さんが安心して押せる環境になると思います。

お前ごときが何を言ってんだ

そう思われて当然です。それでもいいんです。やるんです。

それが二人分の人生を生きる僕の使命だと思って挑戦し続けます。

まず個人としては一人でも多くの子供にサッカーボールを届け

少子化に逆らいサッカーキッズを増やしサッカー人口の比率をあげること。

サッカーに情熱を持っている人がサッカーに関わりながら生活していける

プラットフォームとビジネスモデルを作ること。

プロジェクトとしては企業が地域との関わり方で

ファンを増やしWINWINの環境を作ること。

広告業界がその業態を変え企業や商品のブランド力を上げるための

アイテムやサービスを提供できる環境を生み出すこと。

これらを実現するためにも多くの方にご協力いただければと思っています。

綺麗事を綺麗事のまま成長させてゴミのない世の中に変えられたらと本気で取り組みます。

最後までご拝読いただきありがとうございました。

プライスゼロ・プロジェクト実行委員会

ゼネラルプロモーター(発起人) 向笠哲司

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